暁烏敏賞 平成21年第2部門論文「深く考え、思いを伝えあう場をつくるために 哲学的議論を通じたコミュニケーションの試み」1

ページ番号1002538  更新日 2022年2月15日

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第25回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【次代を担う子どもの育成に関する論文または実践記録】

写真:覚華鏡

  • 論文題名 深く考え、思いを伝えあう場をつくるために 哲学的議論を通じたコミュニケーションの試み
  • 著者 ※3名共著による
    • 東京都国分寺市在住 村瀬 智之
      千葉大学大学院 人文社会科学研究科博士課程1年
    • 東京都東久留米市在住 土屋 陽介
      日本大学文理学部 人文科学研究所研究員
    • 千葉県柏市在住 山田 圭一
      中央学院大学非常勤講師

深く考え、思いを伝えあう場をつくるために 哲学的議論を通じたコミュニケーションの試み

はじめに 現代の子どもがかかえる問題

授業が終わった。「ねぇねぇ、どっち派?」一人の子が友だちに近づきながらそうたずねる。「私はこっちだよ。」話しかけられた子は自分の意見が載ったプリントを指さしながら笑顔で答えた。「えーっ!うそっ、そっちなの。なんで!?」二人の意見は違っていたようだ。「なんでって…だからね…」二人はさっき授業であつかわれた問題について議論を始めた。聞き耳を立ててみる。そこで為される議論は、相手の意見を丁寧に聴こうとする姿勢、それに対して自分の意見を分かってもらおうと必死になって反論する様子、その意見を尊重しながらも再度自分の意見の論拠を提示する態度、二人の会話の表情、そのすべてがすばらしく、授業内でそれを再現できなかった自らの力量のなさに恥じ入ってしまう。こんなふうに、仲の良い友だち同士で話しをするように授業の中でも議論ができたら、そんな思いにかられる。

健全なコミュニケーションを育むための授業をしよう。そう私が思いたったのは、世田谷区が独自に行っている教科「日本語」の中の「哲学」の授業を担当して欲しいと依頼され、承諾するかを考えているときであった。

教科「日本語」とは世田谷区が2007年(平成19年)から行っている区独自の授業であり、その目標の中には、次の二点が掲げられている。

  • 深く考える子どもを育てる
  • 自分を表現することができ、コミュニケーションができる子どもを育てる[1]

「深く考え、それを自分の言葉で表現しながら、他の人ともそれについてコミュニケーションできる」こと。この目標は、現代の子どもたちがかかえる問題の根を言い当てている。私にはそう思われた。

いま、子どもたちのコミュニケーションのあり方が少しずつ変化している。それもあまり良くない方向に変わってきている。子どもたち同士のコミュニケーションで使われる言葉が豊かではない。そう感じている教師は多いだろう。(昨年度受賞論文:三野陽子「言葉で心と心をつなぐ子をめざして 俳句・短歌を取り入れた授業の創造」においても同様のことが指摘されている。)

子どもたちが使うコミュニケーションツールが貧しいわけではない。むしろ、携帯電話、インターネットなどは急速に発達している。昔の中学生と比較すれば、コミュニケーションの道具はその数も利用機会も飛躍的に増えている。にもかかわらず、子どもたちのコミュニケーションが豊かになり健全なものとなっているとは到底思われない。「空気を読む」といった言葉に代表されるように、ありのままの自分を出さず、なんとなく事態が過ぎ去っていくのを待つといった態度が教室のあちらこちらで見られるのである。

発せられる言葉は貧しい。象徴的なのは、携帯電話のメールだろう。それは短く内容に乏しい。少ない文字から意味を読みとることは、もしかすると、彼らの想像力や読解力を高めるという良い効果をもたらすかもしれない。にもかかわらず、実際に起こっていることは、メールの内容ではなく、そのメールを返信するまでの時間を競い、それに遅れることを恐怖するという「空気を読む」コミュニケーションである。

そこには自分の思っていることを語る場もそれについて話し合う場もない。あるのは、集団を維持するために自らを殺し、そして、相手自身をも殺すコミュニケーションだけである。少しでも他の人と違う意見を言ったら排除される。だから、自分の意見は最小限に抑える。当然、相手も誰かの意見に対して曖昧な態度をとる。このことはインターネット上では別の、そして、まったく逆の仕方で顕れる。インターネット上の匿名掲示板では、他者に対する誹謗中傷が溢れ、見えない相手、集団からはずれた個人に対する攻撃には容赦がない。集団を維持するための力はそこからはずれた人間への攻撃力へと容易に転化しうるのである。

こんなコミュニケーションが楽しいわけがない。本来であればもっともリラックスができるはずの友だちとのコミュニケーションがストレスを発生させる場になってしまっているのだ。

これが子どもたちをコミュニケーション不全へと陥れている。本来であれば他者との交流を通して、自己(自分の意見)を形成する最も大切な時期に、現在の中学生は自分の意見も他人の意見も聞けない状況に置かれているということになる。自己とは何かという問いは他者との対比によってはじめて意味を持つ。他者にも理があることを知ることで、はじめて自己の理(意見)を理解することができるのである。現在の子どもたちが置かれている状況は、まさにこの他者の理を理解する機会を奪っている。

子どもたちは、決してコミュニケーション能力が低いわけではない。そして、他人とのコミュニケーションを拒んでいるわけでもない。そうではなく、自分の意見を考えたり、それを使ってコミュニケーションをする方法を知らず、やってみたことがないだけなのである。

私は「哲学」という授業を通して子どもたちに、自分の頭で考えて、自分なりの意見をもつこと、他の人の意見を理解すること、そして、その人たちと議論すること、それらを体験させたいと考えた。そして、本稿の共著者でもある二人の哲学研究者の協力を得て、哲学的思考を通じてこれらの目標を達成しようと決意した。

これは、その挑戦の授業記録である。(ただし、本稿では、紙幅の都合上、準備段階である1学期・2学期は簡単にまとめ、2学期おわりから3学期はじめにかけて行われた実践を中心に論述をすすめていく。)

1.1学期〜2学期

1学期〜2学期にかけて、教科書の中のさまざまなテーマを使いながら、次のことに焦点を絞って授業をしてきた。

  • 自分の意見には必ず理由をつけること
  • 具体例を挙げて考えること

この点を最初に強調したのは、子どもたちの多くが「感想」しか書いたことがなく、「意見」や「主張」を書いたことがなかったからだ。単なる感想と意見・主張が違う点は、意見や主張には理由や根拠が必要とされる、という点である。同じように「私は…だと思う」と書いたとしても、それで終わったとすれば、それは単なる感想である。その後に「なぜなら、…だからだ」と文章が続くときにはじめてそれはその人の意見・主張になる。

意見や主張であれば、他の人はそれに「反論」することができる。そこに理由があるからだ。感想は個人が自由にもつものであり、誰からも反論されるべきものではない。感想であれば、「みんなちがってみんないい」。何かが良いと思ったり、あちらではなくこちらが正しいと思ったりするだけならば、ただそれだけである。しかし、それを良いと思う理由や正しいと思う理由があれば、その理由を吟味することができる。そして、そこに実り豊かな対話が生まれることになる。

大人でもしばしば誤解してしまうが、「抱いた感想が違う」ことと「意見や主張が違う」こととの間には決定的な違いがある。たとえば、「ディズニーランドは楽しい」という「感想」は多様なものであり、「どちらがより良いか」といった区別は存在しない。これは「そろそろ雨が降ってくると思う」といったことにもあてはまる。たとえば、「そろそろ雨が降ってくると思う」と誰かが言い、別の人が「今日はこのまま晴れだと思う」と言う。この状況はいわば「感想」が違うだけで議論が起きたりはしない。二人が違うことを思っているだけである。しかし、「何でそう思うのか」と一方が尋ね、「さっき外を見たとき暗くなってきたから」と他方が答えたとしたら、その「意見・主張」を吟味することができる。「もしかして、暗くなってきたのって、ついさっきのこと?」「うん」「もしかして、今日が皆既日食の日だって忘れてない?」「あ、本当だ。明日だと思ってた」。こんな風に、一方の主張がちゃんとした理由に支えられてはおらず勘違いしていて間違いであったと分かるかもしれない。

自分の意見には必ず理由を書く。このことを身につけさせることは、議論を通して他者とのコミュニケーションを体験させるという、この授業の目的(の一つ)を達成するためのもっとも基本的な前提であった。残念ながら子どもたちはこの基本的な前提さえ最初は身につけていなかったのである。

理由を書くということの他にも、抽象的問題には具体例を挙げて考える、という思考法も順次授業でとりいれた。子どもたちが取り組んできた課題は「哲学」という名前の通り、抽象的で比較的難しいものであった。たとえば、「働くこと」について取り上げる単元では、「仕事」と「好きなこと」の違いを考えさせた [2]。しかし、いきなり「仕事とは何か」とか「好きなこととの違いは何か」などと言っても、多くの子どもには答えようがない。そこで、具体的にさまざまな仕事をあげさせ、それらに共通する特徴をくくりだすことで、「仕事とは何か」という哲学的問題を考えさせた。同じことは、「好きなこと」についてもできる。自分が好きなことを色々とあげさせ、それらに共通する特徴は何なのかを抽出させる。こうすることで、抽象的な問題をいったんは具体的なものに変換し、再び抽象的にする、という哲学的な考え方を学ばせた。単に具体例を挙げるということではなく、その具体例を使って考え、そこから再び抽象的な問題へと戻っていくことで、一見すると難しい問題にも対処することができるようになるのである。

2.2学期おわり~3学期はじめ

2学期も終わりに近づいてくると、多くの子どもが、主張に対して必ず理由を書くことや、具体例をあげながら考えることができるようになってきた。われわれは、そろそろ互いにコミュニケーションをとりながら議論を進める時期がきたと考えるようになった。ちょうど「「考える」ことを考える」[3] という単元に入るところであり、この単元では、「問題そのものを問う」[4] や「話し合う」[5] といった内容に焦点が当てられていた。この単元であれば、「議論を通してコミュニケーションをする」授業に適していると思われた。

われわれは、授業内容をさらに発展させるための補助教材として、アメリカを中心に世界中で行われている哲学教育プログラム「子どものための哲学(Philosophy for Children)」を何回か用いることにした。

「子どものための哲学」は、マシュー・リップマンによって1970年代から開始され、全米5000校、アメリカ以外でもヨーロッパ・南米、アジアでは韓国・台湾で多く実践されている哲学教育のための授業プログラムである。「子どものための哲学」ではコミュニケーション能力の健全な育成が(目標の一つとして)重視されており、多くの国で実践されている理由の一つにもなっている [6]

「子どものための哲学」では、おおよそ、次のように授業を進めるのを基本としている。テキストを最初に読み、それについて子どもからの感想を聞く。その感想の中から子どもが特に注目していることがらについて、クラスみんなで議論をする、という流れである。この授業のやり方は、子ども同士のコミュニケーションを活性化するというわれわれの目的にとっても非常に有効であると思われた。

しかし、日本の子どもたちの状況、クラスの状況を考えると、いくつかの懸念がすぐに思い浮かんだ。それは、子どもたちは自分の意見をちゃんと表現することができるだろうか、他の子の意見に耳を傾けることができるのだろうか、といった議論にかかわることから、「子どものための哲学」のテキストが日本の子どもに受け入れられるのだろうか、というテキストにかかわるものまで広範にわたっていた。

そこでまず、テキストの中でもなるべく文化的な違いが反映されないトピックが扱われている箇所を選び出し、さらにこの単元の授業目的である「「考える」ことを考える」のに最適な箇所を選定し教材として使用することとした。そのようにして選ばれ使用されたテキストは「子どものための哲学」の中でも基幹テキストと位置づけられる『ハリーストットルマイヤーの発見』であった。その第三章を独自に翻訳したものを使用した。

議論についての不安もあった。日本の子どもたちの多くは、自分で考えて自分の意見を表明するということになれていない。多くの子どもは、授業内で指名したり文章を書かせてみたりしてもなかなか自分の意見を発さず、教師が求めている「答え」を探り、それに合わせて自分の意見を表明する。子どもたち同士で起きている「(悪い意味での)空気を読む」という振る舞いを、教師に対しても行ってしまっていた。

このような現状を鑑み、口頭で意見を述べるのではなく、意見を書かせ、それを子どもたちに返す、という授業を計画した。議論のテーマもなるべく子どもたちの意見を引き出せるように、それまで扱っていた問題と比べ、明らかに「答えがない」問題・「答えが一つではない」問題とわかるものをあえて取り上げ、さらに、なるべく抽象的な問題を取り上げることとした。

事前にさまざまな計画を練ってはいたが、ちゃんと議論ができるのだろうか、教材を興味を持って読んでくれるのか、われわれの不安は尽きなかった。

  • [1]教科「日本語」の目標にはこの二つに加えて「日本の文化を理解し大切にする子どもを育てる」があげられ、中学校段階では「日本文化」の授業に対応する。
  • [2] この単元は、世田谷区作成教科書『日本語・哲学』の中の「職業と好きなこと」(p.99)を中心とした授業である。
  • [3] 世田谷区作成教科書『日本語・哲学』「「考える」ことを考える」(p.112)
  • [4] 『日本語・哲学』、p112。
  • [5] 『日本語・哲学』、p114。
  • [6] たとえば、ハワイの小学校において為されている「子どものための哲学」では、ハワイという多文化地域での健全な市民の育成ということに焦点があてられている。そのため、「子どものための哲学」のテキストを使って授業するのではなく、議論をする手法としてこのプログラムを利用している。

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