暁烏敏賞 平成21年第1部門論文「苦悩の倫理学 死なないでいることの<理由>」3
第25回暁烏敏賞入選論文
第1部門:【哲学・思想に関する論文】「苦悩の倫理学 死なないでいることの<理由>」 梶尾 悠史
第四節 苦悩の哲学から苦悩の倫理学へ
欲望を可能な限り肥大化させつつ充足しつづけるという、第二節で見たカリクレス的な生のあり方は、現代の私たちの生活スタイルと奇妙に一致している。資本主義社会の一員である現代人にとって「善き」生は、この社会システムに貢献する生、すなわち欲望を絶えず肥大させた上で充足(=消費)し続けるライフスタイルとして規定される。だが、そうしたライフスタイルは、私たちに少なからず無理を強いる。欲望に従順であり続けるとき、人はいつしか欲望する主体であるはずの自己を見失い、やがて終わりのないこの欲望ゲームに疲れ果てる。空虚な欲望の行き着く先は、同じく空虚な苦悩である。昨今、注目を浴びている「スローライフ」という考え方は、個々人にとって自然な生き方を一人ひとりが模索してゆこうという意識の変革を提案するものである。が、同時に、社会構造によって規定されてきた人生の意味づけを、いまこそ、生きる主体である自分たちの手中に取り戻そうという、ラディカルな主張をもそこから感じ取ることができる。
求められているのは、社会構造という大きな文脈からお仕着せられた欲求の源泉を再び、私たち一人ひとりの生に固有の原理として位置づけなおす試みである。それは、取りも直さず、大きな文脈を構成する抽象的な契機として固有性を捨象された主体に、再び意志する主体としての自律性を与えなおすことにほかならない。このようにして意志する主体の自律性が回復して初めて、外的な動因から生じる限りまったく空虚である苦悩という感情が、新たに、個人の生に内在する固有の価値と意味を帯びるようになる。
前節で論じたように、自分の欲望に従順である者が、その従順さゆえに苦悩に捕らわれることになるという皮肉な結果を、19世紀の思想家ショーペンハウアーはいち早く洞察していた。と同時に、彼は、おのれの生に刻印された苦悩を主体的に引き受け、さらにこの苦悩を彫琢することにより、苦悩に満ちた生に固有の輝きを与えうることを暗示的に示していたのである。この次第を確認しよう。
死への欲求は絶望からも生じる。自分が失ったもの、あるいは先天的に与えられなかったものが、やはりこれから先も永久に与えられえないことを悟ったとき、人は自分の不幸に「出口がない」ことを知る。そこで、発想の転換が起こる。所有と非所有が価値基準として有効なこの世界の彼岸に出てゆけばよいではないか。ここに人は苦悩から逃れる唯一の希望を見出す。しかし、おのれの生を一つの所有物へと矮小化し、生を放棄することが自分に与えられた選択肢の一つであると考えるとき、人は欺瞞に陥っている。彼は「持つ‐持たない」の対立軸の外に出ることを目指したはずである。ところが皮肉にも、そのための手段として自殺を選択するとき、彼はおのれの生を所有物へと貶め、さらに生の永遠の欠如状態へと自分を追いやることができるという幻想を抱くことによって、「持つ‐持たない」を基準にする価値観に最も深くコミットしているのである。
自殺は、非所有という一方の現象の極におのれの生を位置づけることであり、それ自体は、現象的な生の内部で遂行される一つの行為という以上の意味をもちえない。したがって「自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差し出す」(18)にすぎない。そればかりか、生を欠如態という一現象に落着させる企ては、現象の彼岸へ超え出るという「最高の倫理的目標」(19)に自家撞着するために、むしろその目標の「到達に反抗する」(20)ことになる。要するに、自己の生を現象の外に置くという「倫理的目標」は、自らの意志の力で能動的に達成されうるものでは到底ないのである。
死を自分の意志で選択することができると考える者は、生の放棄という平板化した理解でしか死を捉えきれていない。ショーペンハウアーが明らかにしたのは、苦悩と生はそれぞれ不幸と所有の可能性の条件であるということである。苦悩は、所有‐欠如に対応づけられて理解されるような、したがって所有と欠如を両極とする対立軸の上でのみ意味を持つような、相対的な不幸を超越している。同じく苦悩に満ちた生は、この対立軸を基準にしてその価値が算定されるような可処分的な所有の対象ではありえないのである。
つまるところ、自殺はおのれの苦悩を貫徹しないことから生じる。逆説的にも、最も深く苦悩する者は——幸か不幸か——死を決して選択しえない。彼らは生の苦悩を突き詰めることで、死の選択を無期限に延期し続けるよう強いられる。つまり、おのれの絶望的な生を生き抜かざるをえない。このように、生は遍く苦悩によって覆い尽くされている、というショーペンハウアーの主張は、最もシニカルな形式で私たちの生を〈肯定〉する結果となる。すなわち生の二重否定——私たちは生に蔓延する否定性から決して逃れられない——という形での〈肯定〉である。私たちは、現に生きている限り、数多の裏切りや失望、幻滅に翻弄されつつ、生き抜くほかないのである。
私たちの生はどこまでも所有と欠如の相克に支配されている。一方、この対立の外に出るべく生を「放棄」することは、この対立の一方の極に自分の人生を全面的に委ねることにほかならない。そのとき、人は自由を手にしたかのような錯覚によって幻惑されるのであるが、その実、自由はすでに手の届かぬ彼方に逃れ去ってしまっている。考えうるこの最後の手段を用いても、人は意志の原理から自由になりえない。
けれども、重要なのはむしろ、以上のネガティヴな思想は次の主張と表裏一体だということである。すなわち「生の不条理を感受する精神を研ぎ澄ませ。そして持ち続けよ。」私たちはおのれの生の放棄を敢行するときですら、苦悩の源泉である意志の原理の外に出ることができない。そのことを看取すれば苦悩は一層深みを増す。だが、苦悩し続ける限り私は生きている。こうして苦悩と生の果てしないスパイラルにはまり込む。生きることの虚しさを全身で感じつつそれでも生の内部に踏みとどまって苦悩し続ける(=生き続ける)限り、私は死なない、否、死ねない。しかるに、死ねない限り私は苦悩し続けるほか道はない。そして苦悩を深めるほどに、死は遠のいてゆく……。意志を生の原理に据える私たちは、救いのないこのスパイラルから脱却不可能である。こうして拒絶しえない生への、シニカルな〈肯定〉(生きることの〈善さ〉)が生まれる。こうした生きることの〈善さ〉の根底にあるのは、「悩め、生きよ」という定言的命令である。
「自殺大国」とも称される我が国の社会状況の背景には、死を可処分的な生の放棄としてしか理解できなくなっている現実がある。生と死を所有‐非所有の二元論からしか理解できないとき、ともすると人は、死の世界へと驚くべき安易さで飛躍する。人は苦悩を経ることなく、思考停止状態で、躊躇なく生の放棄を敢行するであろう。その中のどれだけの人が、上で見たような生の不条理を問い抜いただろうか。おそらく、耐えがたい苦悩の末に生の彼岸に一縷の希望を見出し、そこへ向けて可能性を賭けるといった形而上学的な欺瞞もあるだろうが、それよりもむしろ、サルトルの言う意味での「自己欺瞞」(『存在と無』)が自殺の動機の主流であろう。つまり、生の永遠の非所有へと自己を追いやり、それによって自己を「不幸である者」という即自存在に確定しようとする欲求である。だがいずれにせよ、われわれの「苦悩の倫理学」の立場から見れば、自殺という解決策は苦悩に満ちた生の実相を真摯に見つめる誠実さからかけ離れているがゆえに、〈悪〉である。
もちろん、生き抜くことの〈善さ〉や死を選択することの〈悪さ〉は、語の通常の意味での「善‐悪」ではない。ここで〈善(い)〉ないし〈悪(い)〉は実体的な「生」に帰属する述語的な規定ではもはやない。言い換えれば、〈善‐悪〉は、生を対象化しつつ規定する通常の形容詞ではもはやない。というのも、通常の「善‐悪」が、ある対象に付与される概念的な規定であるのに対して、〈善‐悪〉は動詞的な〈生〉に身を投じるわれわれの生きる態度を端的に写し取った表現にほかならないからである。実体化を被る前の〈生〉の本源的な力動性の本質は〈善〉である。そして、自殺は、〈生〉の放棄という倫理的に不可能な事柄をあたかも可能であるかのように思いこむ欺瞞に基づく行為であるがゆえに〈生〉への裏切りであり、それゆえその本質は〈悪〉である。
おわりに
日々の営みの間隙を縫うようにして、ふと私たちの口から漏れ出る常套句がある。「何のために私は生きているのだろう。」しかし、この私的な呟きからいったん距離を置いて、「そもそも生きることに価値や目的はあるのか」という普遍的な問いに向かったとき、考えれば考えるほどその問いに対する一般的かつ肯定的な答えは見いだせない。確かに、個々人を見れば、明確な目標の実現に向けて持てる力を発揮し、人生を謳歌している人もいる。彼の人生はきっと幸福な「善い」人生であるにちがいない。しかし、彼が人生の善さを享受しえている根拠の大部分は僥倖だということを見逃してはならない。たとえば、彼がある程度の能力に恵まれ、その能力を活用して何かを生み出す技術が現存し、しかも、それによって生み出される生産物が現代社会で一定の肯定的な価値を持っているといったこと、これらはすべて偶さかの幸運である。これらの僥倖に一切恵まれない人生も彼にはありえたのである。
なるほどこれらの事情は、人生に経験的な「善さ」を帰属させる根拠となっている。しかし、それらは、ある人がどのような境遇に生まれ、いかなる来歴を経てきたかといった偶然的な事情から独立に、「生きている」という端的な事実の内に直観される本質的な〈善さ〉を導きはしない。そして、本論から見て取られたように、生きることがそこから価値を汲み取り、あるいはそこへ向けて収束して行くような、超越的な目的など存在しない。
だが、そのことを理解したとしても、私たちはなお「何のために私は生きているのか」という個人的な問いを問い続けるだろう。そう問い続けることこそ、私たちが生き続けていることの何よりの証となる。そして、偶然的な事情を捨象してもなお生をその外部から価値づけるような超越的な目的など存在しないという事実を直視したうえで、なお生き続けるということ、言い換えれば生への無条件の誠実さは、それ自体で偶然的な事情から独立に、生の本質的かつ内在的な〈善さ〉を形作るのである。
もちろん、苦悩が差し当たり生への肯定感情の背景に退いた「持てる者」よりも、苦悩が生の前面にせり出した「持たざる者」の方が実は「善い」のだ、などと私は言いたいのではない。そのような価値転倒を企てるならば、苦悩の倫理学は「奴隷道徳」(ニーチェ『道徳の系譜』)になり下がってしまう。私が言いたいのは、所有‐非所有という偶然的な価値基準に先立つ、生きることそれ自体に内在する本質的な価値に目を向ける視点がいま求められているということだ。このような視点を獲得したとき、はじめて、私たちは「持つ‐持たない」という二項対立を克服して、「分かち合う」ことに新たな価値を見出すことができるのだとおもう。そして、人間の存在意味を私的所有者へと切り詰める偏狭な人間観を脱するとともに、他者に対して、その人が持って生まれた属性やその社会的な有用性を度外視して、その人自身の存在を無条件に肯定する友愛の視点をもつことができるのだとおもう。「わが身においてではなく、まさにその人の身において」(21)他者の苦悩を感じることのできる真の同情は、この視点を欠いては不可能なのである。
したがって、苦悩の倫理学を論じた本論は、最終的には、ここで論じられないままになった友愛の倫理学への序論(プロレゴメナ)という位置をもつようにならなければならない。そのような理論上の要請は、鬱の時代と称される現代が友愛社会を準備する過渡期となるべきである、という実社会への要請に呼応しているのである。
註
- (1) 鷲田清一、『死なないでいる理由』 角川学芸出版 二〇〇八年、一五九頁参照。
- (2) 『萬葉集 訳文篇』 佐竹昭広、木下正俊、小島憲之共著、塙書房 一九七二年、巻第三、四四四。
- (3) アウグスティヌス、「告白」 『世界古典文学全集26 アウグスティヌス・ボエティウス』渡辺義雄訳、筑摩書房 一九六六年、第十一巻 第十四章参照。
- (4) ショウペンハウエル、『自殺について』 斎藤信治訳、岩波書店 一九五二年、十四頁。
- (5) トマス・ネーゲル、「死」 『コウモリであるとはどのようなことか』 永井均訳、頸草書房 一九八九年、 十二頁参照。
- (6) ルクレーティウス、『物の本質について』 樋口勝彦訳、岩波書店 一九六一年、第三巻、一五二‐一五三頁参照。
- (7) 同前、十二‐十五頁参照。
- (8) 同前、一五頁。
- (9) 『萬葉集 訳文篇』 巻第二、二〇九。
- (10) プラトン、『パイドン—魂の不死について』 岩田靖夫訳、岩波書店 一九九八年、参照。
- (11) プラトン、『ゴルギアス』 加来彰俊訳、岩波書店 一九六七年、一五三‐一五九頁、参照。
- (12) 同前。一四八‐一四九頁。
- (13) 『萬葉集 訳文篇』 巻第三、四四二。
- (14) ジンメル、『ショーペンハウアーとニーチェ』 吉村博次訳、白水社 二〇〇一年、一〇七頁、参照。
- (15) 同前、一〇六頁参照。
- (16) ショーペンハウアー、『存在と苦悩』 金森誠也訳、白水社 一九九五年、 五九‐六一頁参照。
- (17) ショウペンハウエル、『自殺について』 三八頁。
- (18) 同前、七八頁。ショーペンハウアー、『意志と表象としての世界3』 西尾幹二訳、 中央公論社 二〇〇四年、第六十九節参照。
- (19) 同前。
- (20) 同前。
- (21) ショーペンハウアー、「道徳の基礎について」 『ショーペンハウアー全集 9』 前田敬作他訳、 白水社、三二七頁。
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