暁烏敏賞 平成19年第2部門論文「「いじめ」を越えた子どもたちとの歩み 教室の人間化から生まれる成長の姿」4

ページ番号1002555  更新日 2022年2月15日

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第23回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】「いじめを越えた子どもたちとの歩み 教室の人間化から生まれる成長の姿」寺岸 和光

(5)十月〜十一月

〔1〕4分割授業で教え合う

運動会直後から、社会科の授業で個人研究発表に取り組ませた。歴史学習のキーワードを個々が分担して調べていく。その内容を図解し、黒板を使って説明する。話し手と聞き手の距離を考え、教室を四つに分割して同時進行で進めるワークショップ形式で行った。単に説明するだけではこれまでの対話経験が生きないため、問いや挙手指名や発言を取り入れ、発表者が先生役になった。一回の発表は五分間ほどで、発表後は生徒だけが入れ替わる。四回の発表で一巡することになる。そこで発表者が一新し、また新しい4分割グループ毎に発表が始まる。

一学期から培ってきたさまざまな力を総合する形でどの発表者も工夫した。また、聞き手も呼応しながらメモをとり、質問も出てくる。こうして、対話的で協同的な授業はペアから人数を増やしつつ広がり、教え合う姿がこの学級の日常になっていた。

〔2〕自分を見つめ直す場をつくる

絵の会のテーマは「花と詩」。詩の創作はこの時が初めてだった。創作マニュアルなどは与えず、星野富弘氏の作品をいくつか紹介した。その鑑賞での感動を原動力にして、詩の創作に入った。この半年間をふり返って、それぞれが学んだことや印象的な場面での心の動きをそのまま言葉にした。そして、詩のそばに気に入った花の水彩画を描いた。

私は完成した作品をながめ、「いじめ」と向き合える時期が来ていることを感じた。多くの子どもが自分の弱さも可能性も自覚できる感受性を育てていたからだ。過去を越えようとする誠実な十二歳の生き方を、私はどの作品にも感じた。

すべてかくしていた
心の中に
そこから出そうとしても出せない
心にはかたく閉めた鍵がかかっていた
でも
やっとその鍵がとれた
すべて言えた
すっきりと
心の中はもう暗くない

下級生の前で
大きな声で発表している私
いつのまにか
そんなことができるようになったんだ
下級生の前に立つと
みんなと話したくなる
緊張なんかしない
そんな私

運動会の得点発表
指令台にのぼった
大きく息を吸って思い切って・・・
ちゃんと言えた
もうはずかしくない
この瞬間
私の心に花が咲いた

がまん
がまん
下級生に何を言われても
がまん
すぐおこらない
がまん
がまん

いつもうつむいていた
自分のあたたかさを失っていた
だけど あの子の笑顔
となりの子の笑顔
見ているとなんだか
自分も笑いたくなった
本当はね 木も草も鳥も
そして花も笑っているんだ
笑うって こんなにあたたかくなるんだ

私の花
みんなから水をもらう
私の花
強い風にも負けない
ふまれたって負けない
私の花
負けない花
今はまだ小さいけれど
いっしょうけんめい
いっしょうけんめいのびてゆく

4 「いじめ」と向き合った子どもたち

(1)互いの弱さを共有する

十一月半ば、私はこの教室でようやく「いじめ」という言葉を口にした。「半年間待ってほしい」という四月の約束は、子どもたちの成長によって果たされることになった。道徳授業で「いじめ」をテーマとしたドラマのビデオ視聴をスタートしたのである。毎回二十分間ほど視聴し、その範囲で感想を書き、交流し合うシンプルな授業展開を考えていた。
子どもたちの力量は、四月とは比べものにならないほど高まっている。感情的な物言いは消え、対立する場面があったとしても内面のありのままの表出を重ねる中で、子どもたちは互いが納得する着地点を探して協同できていた。だからこそ、子どもたちにとって「いじめ」は遠い過去のできごとになっていると私は感じていた。今が充実していれば、それだけ過去の過ちには誰もがふれたくない。子どもたちが自分の「いじめ」体験に向き合うには、さらに時間がかかると予想していた。画面の「いじめ」場面を、第三者の目で客観的にとらえるだけで今は意味があると思っていた。
ところが、この最初の感想交流から互いの過去の体験がいきなり出されていった。それぞれの過去と現在の感情が静かに語り出されていった。いじめた側、いじめられた側、傍観した側、すべての立場を経験してきた子どもが多くいた。涙をこらえて宙を見つめて話す子どもがいて、涙で喉がつまって話せなくなる子どもがいた。子どもたちの独白は途切れることなく続いていく。私は我慢できずに子どもの発言を止めてしまった。そして「みんなは悪くない」と思わず声にしていた。教室は四月にもどったかのように沈んだ。
朗読の真剣な目、男女ペアで語り合う姿、運動会の歓喜、花を描く筆先・・・数え切れない可能性を秘めた子どもたちがなぜ「いじめ」にエネルギーを注ぐことになったのか。人間関係に傷つきながら過ごした時間が何をもたらしたのか。いじめていた子どもが本当に悪いのか。いじめられていた側だけが被害者なのか。傍観してきた子どもは何を見てしまったのか。子どもたちの独白の中で、私はずっと自問自答していた。輝き始めた子どもたちが、忘れたいはずの過去を自ら引っ張り出して苦しむ姿を私は見ていられなかった。
こうして子どもたちは、過去の問題にいきなり足を踏み入れてしまった。自分の弱さを口にできる関係がいつの間にかできていた。大人の世界にも「いじめ」はある。それが人間社会の常なら、教師の仕事は問題児を見定めて責めることではなく、その経験を生きる力につなげてやることだと私は悟った。

(2)総合学習のテーマとして取り組む

具体的な経験から「いじめ」をあぶり出し、その折々の感情を差し出しながらも、正面から理性的に考える「共生」の問題として「いじめ」を問い直したかった。それぞれの痛みを隠すのではなく、その事実を受け入れた上で内面を差し出し合い、「いじめ」を越えて人間がつながり合える可能性を模索したかった。そして、子ども個々の生き方や未来につなげてやりたかった。このような考え方から、道徳授業を含めて総合学習の二十時間あまりを費やすことにした。ここからは個人的な感傷の羅列ではなくなる。正面から堂々と解決すべき今日的課題として「いじめ」問題をとらえていく。
子どもたちは自らの「いじめ」体験をもとに、生き方を模索する協同的な学びに入っていった。ビデオ視聴だけでなく、専門家や研究者をゲストとして迎えて議論に加わっていただき、アドバイスを受け取る機会も設けた。

(3)学年レベルで出会い直す

運動会以降は、学年レベルで学び合える場も設定した。それは、「いじめ」問題をめぐる議論ではなく、子どものコミュニケーションを知的に変質さていくかかわりの場だった。「いじめ」問題の解決で重要なのは反省や謝罪の言葉に固執するよりも、それぞれの可能性を自覚する経験と、生き方を自問自答する場の創出である。学年レベルの活動でも、協同と対話によって出会い直し、関係を再構築する時間が必要だった。
例えば、算数では授業で扱う単元を学級毎にずらし、先に学習した内容を他学級に教え合う授業を実施した。各学級を混合した小グループを作り、その中で違う学級のメンバーを相手にミニ授業を行うのである。わかっているだけでは教えられない。しかも、学級外の仲間が相手になる。理解されるような事前の工夫が生まれ、教えられる側からの質問にも備えなければならなかった。学年レベルでの知的活動の中で、縛り合うコミュニケーションとは正反対の与え合うかかわりを展開していったのである。
また、三学期に実施した学級・学年スピーチ大会も、仲間と自分の固有性を再発見する場になった。傷つけ合うための歪んだ言葉ではなく、それぞれの意外なこだわり・異質性を正面から堂々と胸を張って伝えるものとして言葉を経験させたかった。どの子どもも、一年前の自分を刷新するような自分の声を育ててきている。この事実を知ることが、互いの存在を尊重するものとして意識するきっかけになった。
そして三月、「いじめ」を見つめてきた学びを束ねる活動として、学年全体から気づきや決意の言葉を集め、「いじめゼロ憲法」を作り上げることになる。卒業式の「別れの言葉」に含め、全校に提起することで「いじめ」をめぐる学びは完結した。しかし、この提起自体が目的なのではない。ここに至った一年間の過程にこそ、生き方を見つめる学びがあったのである。

過去の作品

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