暁烏敏賞 平成21年第1部門論文「苦悩の倫理学 死なないでいることの<理由>」2

ページ番号1002535  更新日 2022年2月15日

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第25回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】「苦悩の倫理学 死なないでいることの<理由>」 梶尾 悠史

第二節 不幸としての死 不可逆的な喪失

黄葉の散りゆくなへに玉梓の使ひを見れば逢ひし日思ほゆ(9)

日本の文化では、身内の死は「不幸」という語で婉曲的に表現される。この世に残された者は、身近な人間の死を我が身に起こった不幸と理解する。私は「他者の死を悼む」のであって、「私が他者を死ぬ」ということはナンセンスである。したがって、一口に喪失と言っても、死んだ当人にとっての自身の生の喪失と私から見た他者の生の喪失とでは、全く意味がちがう。喪失という語には、死の経験主体の二重性が、より正確には死という概念の帰属主体の二重性が示されている。第一に、A氏の死は、Aが彼に固有に帰属する生を失うことである。第二に、Aに固有の生を所有することが原理的に不可能なB氏にとっても、Aの死はBに固有の生の内部においてAの生の喪失としての意味をもつ。Aに固有の生が「亡く(無く)なる」という端的な事実は、残されたBにとってAを「亡く(無く)す」こととして現象する。だが、日本語で「身内の不幸」と言うとき、その不幸は亡くなった当事者Aに帰属する不幸を意味しない。なぜなら、そのような帰属主体はもはや存在しないのだから。したがって、それはAという大切な存在を失ったBやCやD…らの不幸でしかありえないのである。

亡き人の面影を求めるとき、人はしばしば、時間の不可逆性や喪失の永遠の充足不可能性といった、死そのものの本質的な事象に触れることになる。他者の存在に対する喪失感や、あの人と触れ合ったあの喜ばしい時間はもはや永遠に巡ってこないという寂莫の念に、残された者たちは捕らわれる。他者の死を経験した者が直面するそうした新たな局面を、本節の冒頭の挽歌は示しているであろう。

身近な他者の死は私たちの感情を喪失感で埋め尽くす。だが、そもそも、喪失が不幸と捉えられるのはどうしてか? 西洋では、古代以来、幸福論が道徳論の基本にあった。幸福とはすなわち善い生活の実現である。この「善さ」について考え、「善い生活」を得るためにどう振舞ったらよいのかを考えることが道徳論の根幹をなしてきた。そこで本節では、善と悪をめぐる古典的な議論に目を向けることにしよう。古くから、善と悪は所有と欠如の関係から捉えられてきた。先に見たネーゲルの主張も、善悪についてのこのような見解を踏襲している。さて、所有は善であり欠如は悪であるという大前提に、死を生の喪失と同視するという別の前提が付け加わったとき、死は悪であるという結論が導出される。さらに、道徳論と結びついた幸福論の観点から、死は不幸であるということまでもが結論される。まとめよう。

  • (1) 幸福は人生の「善さ」によって規定される(道徳論の原理)。
  • (2)「善‐悪」の関係は「所有‐欠如」の関係として規定される(善悪の古典的見解)。
  • (3) 死は生の喪失である(生と死の非対称性)。
  • (4) 死は悪である((2)と(3)より)。
  • (5) 死は幸福ではありえない((1)と(4)より)。

だが、私はこの議論が根本的に間違っていると考える。とりわけ(2)は不確かな主張であり、おいそれと受け入れることはできない。

ところで、死を幸福と見なす考えも同じように古くからある。たとえば、ソクラテスが肉体を離れた魂にとっての安寧の地、肉体的な欲求から解き放たれた真の幸福が約束された地を「ハデス」と呼ばれる死後の世界に求めたことは、よく知られている(10)。プラトンは対話篇『ゴルギアス』において、このように考えるソクラテスの口を借りて右のテーゼ(2)の論駁を試みている。

ソクラテスは大略次のように論じる(11)。喉の渇き(欠乏)は苦痛である。…(�@)飲むこと(充足)は快楽を引き起こす。…(�A)ゆえに、喉が渇いた状態で飲むことは、苦痛を感じながら快楽を感じることである。…(�B)つまり、「所有‐欠乏」ないし「快‐苦」は同時に両立するペアであるから、決して両立し得ない「善‐悪」のペアとは別のものであるという結論に至る。

だが、以上の議論は対話相手のカリクレスの真意を捉えそこねている。カリクレスは言う。「快適な生活とは、できるだけたくさん流れ込むという、まさにそのことにあるのだ」(12)と。つまりカリクレスの考える善い生き方とは、欲望をできるだけ放置し、肥大化させたうえで、これを充足し続ける生き方なのだった。そして、人間の徳とは、自分の欲望に対して勇気と思慮を持って奉仕する力量、つまり自分の欲望を実現できるだけの実力を指す。そうであるならば、善い生き方のその「善さ」の根拠は、欲望が絶えず満たされつつあるというそのことにある。現に充足していっているという、その過程に重点は置かれなければならない。すると、欠乏の意味は、むしろ充足過程によって規定されることになる。つまり欠乏はあくまで充足過程の一契機として捉えられるべきなのである。それゆえ、充足過程と欠乏状態を同一の次元に置いて対立する対概念と見なすのは誤りなのだ。ソクラテスが充足と欠乏を単純な対立関係に置いて、善悪の関係として捉えようとするとき、カリクレスは異を唱えるべきだったのである。ソクラテスの理解する快楽と不快の関係は、単なる充足と欠乏の関係であるが、そのような考えはカリクレスの真意ではない。

カリクレスにとっては、常に何らかの欲望が満たされつつある人生が善い人生である。ならば、悪い人生の「悪さ」はどこに求められるのか。一般的な悪の意味について、再び喉の渇きをめぐって考えてみよう。次の二つが考えられる。第一に、喉の渇きという欠乏状態である。第二に、満たされるべき渇きが満たされないという事実である。この二つの区別は決定的に重要であると思われるのだが、ソクラテスには見えていない。カリクレスにとっての悪とはまさに後者である。ところが、ソクラテスはカリクレスが悪ということで前者つまり喉の渇きそのものを指していると理解している。しかし、それは正しい理解ではない。

「善‐悪」…Aは、できるだけ多くの快楽が「流れ込む(充足される)‐流れ込まない(充足されない)」…A’として言い換えられる。だから、1「快楽(欲求の充足)」に対しては、2「欲求の充足の失敗・非実現」を立てるべきであろう。そして、1と2の対立のもとでのみ、欲求の充足の失敗は悪でもある。別の言い方をすれば、このような対立のもとにない単なる渇きそのもの、あるいは飢えそれ自体、痒みそれ自体等々は、実は悪を含意しない。カリクレスの主張の真意を汲み取れば、欠乏の状態そのものは、「善‐悪」の対立軸上にないのである。

ところが、ソクラテスはA’の観点を抜きにして欠乏状態そのものを論じ、それをカリクレスが言わんとする不快=悪と等価のものと見なす。だが、カリクレスにしてみれば、欠乏状態それ自体は、善いのでも悪いのでもない。彼の考えでは、A’の規準に照らして考えるとき初めて、欠乏に対して、善いや悪いという価値付けがなされるからである。

このように詳細に見てゆけば、最初のソクラテスの議論はカリクレスを論駁したことにはなっていないことがわかる。カリクレスにとって、不快とは「渇き(それ自体は善いのでも悪いのでもない)」が満たされないでいる状況全体であり、また、快楽とは「渇き(やはりそれ自体善いのでも悪いのでもない)」を充足してゆく過程全体だからである。そうであるならば、カリクレスにとっても、「快‐不快」や「充足過程‐欠乏状態」は共存しえず、よって、こられを「善‐悪」と同一視することも可能なはずである。言うまでもなく充足されないでいると同時に充足されつつあるということはありえないからである。

テーゼ(2)が論理的な欠陥を含んでいることを見抜いた点では、たしかにソクラテス(を通して語られるプラトンの主張)は正しい。しかし、彼は、所有状態と欠乏状態が二極化して問題を形成する以前の生の流動的な様態を軽視していた。カリクレスは、まさにこうした生の力動の内に生きることの幸福の根拠を求める。実体化された生の表象に先立つ本源的な生の力動をほのめかすことで、生の意味を理解する上で規範となり続けてきた、「非所有」のカウンターパートとしての「所有」というパラダイムとは異なる視点から生やその善さを理解する可能性が、ここおいて隠れた形で示唆されていたのである。

第三節 苦悩としての生 所有と喪失の相克の中で

世間は空しきものとあらむとそこの照る月は満ち欠けしける(13)

善と悪を二項対立的な所有と欠如の関係で捉えることは誤りである。このことを『ゴルギアス』から読み取った。だがプラトンがこの著作で指摘したのはそこまでである。とはいえ、前節で見たように、プラトンの意図を超えて、生の力動性の観点から善悪を捉える方向性がそこには示されていた。その考え方では、善は「欠乏状態から充足過程へと移行し、そして充足過程が持続していること」として理解される。他方、悪は「欠乏状態が継続し、そして充足過程が開始しないでいること」と理解される。これに付け加えて、もう一つ悪と見なされる状況が考えられる。すなわち「充足状態から欠乏状態へと移行し、そして二度と再び充足過程が開始しえないこと」である。先に言及したネーゲルは、まさにこの第二の悪の意味で、生の永遠の喪失としての死を絶対悪とみなしたのである。

だが、果たして、死は生の喪失なのであろうか。死の悪が通常の悪に対して絶対的であるという理由は、死が欠如から充足への、あるいは充足から喪失への、絶えざる移行が生じるところの「場」そのものの喪失を意味しているからである。言い換えれば、死は生の力動の打ち止めを意味しているからである。けれども、生の力動的な場は、私たちにとって自由に処分できるような一つの所有物なのだろうか。善悪とは本来、充足‐欠乏の対立軸の上を動く生の内部でのみ意味をもつ概念ではないのか。したがって死は、善とも悪とも形容し難い勝義の意味で「善悪の彼岸」に位置する事象ではないのか。

本論の残りでわれわれは、死を通常の所有概念の意味で、生の所有を放棄することと見なす考えに異を唱える。その上で、死一般が悪であるかどうかの問題とは独立の問題として、「生を一個の所有物のように放棄すること」が倫理的に許されない(=倫理的に不可能である)こと、それゆえ〈悪〉であることを示したい。

以下の論考でわれわれが依拠するのは、ショーペンハウアーの思想である。彼の思想はしばしば「意志の哲学」と呼ばれる。意志という現象は、おのれの生のエレメントを欠如状態から充足状態へと移行させようとする絶えざる欲動であり、言うなれば、私たちの生の遂行に絶えず推力を与え続ける動力因である。意志の哲学という境地において彼が生の本質として見て取ったのは、他でもない、前節で確認したような所有と欠如の絶えざる相克の過程である。ただし、カリクレスが絶えざる充足の過程のうちに自己肯定ないし幸福の徴を見出したのに対して、ショーペンハウアーは、こうした過程によって生が支配されているという事実のうちに、生を覆う自己否定ないし苦悩の温床を突き止める。二人は同じ生の原理を共有する一方で、そこから生に対する正反対の根本感情を引き出すのである。ショーペンハウアーの哲学が「意志の哲学」であると同時に「苦悩の哲学」とも称されるゆえんである。

ところでジンメルは、「意志の哲学」と「苦悩の哲学」という二つの側面にショーペンハウアーの哲学の独創性を認める一方で、彼は、それぞれ単独に見れば偉大なこれらの成果を強引に統一しようとした点に、かの哲学者の思索が含む一点の不純さを認める(14)。ジンメルによれば、快楽‐苦悩を、意志の満足および不満足としての所有‐欠如と等価と見なす点で、ショーペンハウアーは誤っている(15)。なぜなら、快楽と苦悩は、所有‐欠如という二律背反の関係に対応するわけではなく、両極の中間領域とでも言うべき曖昧さを許すものだからである。例えば、私たちは欠乏の現状に悩みつつ、同時に、未だ成就せざる将来における獲得に希望と喜びを見出しうる。このことはまったく背理ではない。したがって、「生とは充足への不断の欲求である」ということが意志の哲学から帰結するとしても、それは、「生の全体は絶えざる苦悩によって覆われている」という第二の結論を導出する前提として十分ではないというわけである。

けれども、苦悩の本質が、形而上学的な〈意志〉に突き動かされているという、私たちの生の絶対的な事実の側に存することに留意すれば、上の批判は妥当でないように思われる。ジンメルはショーペンハウアーが問題にする苦悩を心理現象としての不満足の次元でしか捉えきれていない。実際、ショーペンハウアーが問題にする苦悩は、私たちの生現象に根拠を与える(カント的な意味での)物自体(ディンク・アン・ズイッヒ)としての〈意志〉に根差すものなのである。つまり、それは、満足感(快楽)‐欠乏感(苦悩)という相対的な対立を超えた、あるいはその基盤をなす、絶対的な〈苦悩〉なのである。

二つの点が疑問として浮かんでくる。第一に、どうして生の原理である意志が、現象界から切り離された「実在」を伝統的に意味してきた、物自体という概念と同一視されるのか。第二に、どうして現象的な生の原理である意志が、よりによって苦悩と結びつくのか。これら一見すると異質に映る二つの概念を同一視もしくは結合しようとする真意を探ることで、ショーペンハウアーの「苦悩の倫理学」の隠れた主題を読み解くことができるであろう。そして、この苦悩の倫理学が、冒頭に掲げた「いつか確実に死ぬのになぜ、今、死んではならないのか」という問いに対する答えの方向性を示してくれるだろう。

まず、意志と苦悩がどうして結びつくのかについて考えよう。前述したように、ショーペンハウアーによると、生の内部の諸現象のすべては、欠乏を満たそうとする欲求に裏打ちされた力動として出来する。だが、充足の結果に得られる安寧は、あくまで個々の意志現象の落着でしかない(16)。ある意志は、欲求が充実にもたらされることによって廃棄される。だがそのとき、ある個別的な現象に幕が下ろされるに過ぎない。現在到達した目標は、新しい目標を狙うために用意された新たな出発点へとすぐさま変貌する。「あらゆる満足はまた別の新しい願望を生みだしてくるのであり、意志の欲求は永遠に充たされないまま果てしなく続いてゆく」(17)のだ。世界はあたかも際限のない不毛な略奪戦のような様相を呈する。こうした世界像に臨んで初めて、個々の現象を生起させもって生に力動性を与えるところの、普遍的な原理が可視化される。

生は常に何らかの欲求に突き動かされている。ある目標が満足された時点で常に、別の新たな目標の不満足が顕在化してくるからである。このようなわけで、絶えず充足へと駆り立てられつつ永続的に欠乏に留まるという生の事実が体現される。この「絶えず」「永続的に」という点こそが、個別の意志現象を貫く原理としての〈意志〉の本質である。たとえ個々の意志が終息することがあっても、私たちの生が原理としての〈意志〉から解放されることは決してない。その意味で〈意志〉は現象を絶えず超え出る実在である。当然、それは満足‐不満足という心的現象の内に回収される何ものかではない。むしろ、それは、意志活動の基準となる所有や欠乏という語の文法を成り立たせる前提なのである。〈意志〉が充実する、という言い回しはカテゴリー錯誤なのだ。

私たちは、そのつど出来する「意志現象」を生から除去するよう目指すのだが、しかし、生の原理である実在的な〈意志〉は、経験の内部では実現されないカント的な意味での「理念(イデー)」として、生を統制し続ける。現象と物自体という意志の二重性が、私たちの生にこのような不条理を与える。私たちはそこに真の絶対的な〈苦悩〉を感じる。生活の中で日々感じられるあれやこれやの苦悩は、ジンメルが指摘するように、所有‐欠乏の座標軸上で微妙なグラデーションをなす。これに対して、〈苦悩〉とは、私たちの生がこの座標軸上で右往左往して無目的に進んでゆくという、拒絶しえない生の事実に直面して感得される、漠然とした、だが絶対的な感情なのである。そこから逃れることのできない〈意志〉に絡め取られながら、意志現象の際限ない段階を予描するとき、言いようもない遣る瀬無さに捕らわれる。それは相対的な不満足に起因する相対的な苦悩とはまったく異なる質のものなのである。

本節冒頭に掲げた挽歌の詠み手は、所有と欠乏の変転を何の当てもなく出来させて止まない生世界の「空しさ」に捕らわれ、自身の生のそうした寄る辺ない移ろいの様相を、月の「満ち欠け」という自然現象のうちに象徴的に見てとっているのであろう。

さて、ショーペンハウアーに話を戻せば、意志の哲学の独創性は、物自体と主観的な諸現象の区別を認めつつも、両者を分断するのではなくむしろ、双方の緊密な連関を明らかにしたことにある。森羅万象を意志というパースペクティヴから捉えることで、世界はさながら意志一元論といった様相を呈してくる。しかし、こうした視座に立つことは、生の原理を現象レヴェルに引き摺り下ろすこと、主観的な意志という現象に還元することではない。意志一元論は現象一元論ではない。むしろ、この眺望において、相対的な諸現象と絶対的なる者とのコントラストが画然と浮かび上がってくる。しかも、その絶対者というのは、私たちの主観的な表象を通して、なおかつ、その表象を超越するものとして透視されるような〈意志〉なのである。私は、このようなショーペンハウアーの考え方に、生の彼岸に真のリアリティを求めるのではなく、あくまでも現実の生の内部にとどまって生の意味を問いつづけようとする誠実さを感じる。そして私見では、彼は自らの思考の誠実さを貫くことに、生の苦悩を生の肯定へ反転する唯一の可能性を賭けているのである。

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