暁烏敏賞 平成21年第2部門論文「深く考え、思いを伝えあう場をつくるために 哲学的議論を通じたコミュニケーションの試み」3

ページ番号1002540  更新日 2022年2月15日

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第25回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【次代を担う子どもの育成に関する論文または実践記録】「深く考え、思いを伝えあう場をつくるために 哲学的議論を通じたコミュニケーションの試み」村瀬智之、土屋陽介、山田陽一

3.感想からわかること

ここまで、非常に簡単にではあるが、われわれが一年間の「日本語・哲学」の授業で取り組んできたことを、特に後半に行った「哲学的思考を用いた議論」を中心にみてきた。子どもたちが一年間の授業についてどのように感じていたのか、それを最後に感想として書いてもらった。ここではそれらの中から、特に本稿で扱った授業に対する感想を通して、一年間の実践を振り返ることにしたい。

A…自分が考えたことをプリントに書いて、そのことについて意見をもらえたり、その次の授業で取り上げられてもらえたりすると、すごくうれしかった。日本語でやるような「〜についてあなたはどう思いますか」という問題に「〜だと思う」と答え、さらにその答えに対して「いや、私はそう思わず〜と思います」というような議論をすることは、結構好きなので、楽しかったのもありますが、現在の日本の子どもたちに、このような授業を体験させることは重要なことだと思います。

B…他の人の意見を見ることができて良かった。意見を読んで新たに自分の考えができたし発想が広がった。先生の話を聞いて、他人の考えも少しは理解できたし、とても興味があった。

C…最初は日本語って何を勉強するの?何で勉強するの?などと思っていましたが、授業を受けてみると内容が深くてびっくりしたりついていけないところもあったけど、だんだん自分の考えを上手く主張できるようになって楽しかったです。私はこの一年間の日本語の授業で、自分の意見を主張するのも大切だけど他人の意見を聞くのも大切だということを学びました。

D ふだん考えないっていうか、考えようともしないことを考えるので、面白いと思う。他人の考えをプリントにしたりすると、何をどう考えたらこんな考えになるのかがなんとなーくだけど分かるような気がする。

E 自分の意見を考えたり、他人の意見を反論したり、今までにないことをしたと思う。そういう面であまり考えた事もなかったから、自分にとって、良かったと思う。例えば、他人の意見を聞いて、自分の考えが変わったなど…

F みんなの意見が書いてあるプリントをみて反論するのが楽しかった。また色々な意見があって、読んでいるのが楽しくなった。…

G 自分で考えて、その考えをみんなでまた反論しあったりするのが初めてで、おもしろかった。また、自分の考えは間違っているのではないか、という思いも、プリントでみんなの意見を聞けたので思わなくなった。印象に残っていることは、「考えることを考える」です。1つのことを深く考えるのが楽しかった。また、意見(考え)をまとめてのせたプリントに、自分の意見がのっていると、うれしかった。…理解できない考えはあるか?の「ない」派の人に、また反論したくなった。もっとやりたかった。

H 日本語の授業は他の授業と比べて自分の頭で考えることが多いし、自分の意見を見直すことができるので何か楽しい。世田谷区のエライ人は、考えることの楽しさや、普段は考えないようなことをあえて考えさせるために日本語の授業をつくったんだと思う。

I…今までぜんぜん気にしていなかったことや、考えようとしなかったことを考えたり、他人を理解したりするようになれました。…〔数・数学問題〕を考えるのは特に楽しかった。みんなの意味も知れたし、なにより自分の考えをもっと深くできて、良かったです。今までは考えることがめんどうだったけど、たのしく授業ができた。

J…〔「理解できない他人の考えはあるか」という問題にかんして〕日本語をやる前は自分がそんな風に思っているなんて思ってもみなかったし、他人のことをそんな風に思っているなんて思ってもみなかった。…

K…書いてまとめてみると、自分の考えが相手に伝わるだけではなく、自分で読んでみて、「自分はこんなことを考えていたのか!」と自分で自分の考えをはじめて知れた気がした。(他の果題も同じく)プリントを書いている時の自分は内なる自分で、他の存在の何かなのかも…?…新しいし、ムズカシイ。なので頭にシミついてます。…

これらの感想からわかることは、子どもたちが望んでいるのは、自分の意見を主張するということだけではなく、人の意見も聞きたがっているということだ。それはまさに、コミュニケーションを求めているということである。この文章の最初に、子どもたちがコミュニケーション不全に陥っていると書いた。しかし、このことは子どもたちがコミュニケーションを避け、そこから逃走しているということを意味するわけではない。彼らは、そして、おそらく大人であるわれわれも、コミュニケーションを求めている。自分の意見を言い相手の意見を聞くことで、問題となっている事柄の理解を深めたい、問題を解いていきたい、何よりも自分の思っていることや相手の心をもっと知りたい、そう願っている。

感想から見えてくることは、子どもたちが自分で考えた意見を主張すること(A)、クラスメートの意見を見聞きすること(B・C・D)、そして、クラスメートと議論すること(E・F・G)、これらを充分に楽しんでいる、ということである。特に注目すべきなのは、自分とは違う意見を見聞きすることに喜びを感じているという点である。しかも、自分とは意見の違う他者とのコミュニケーションを通して、自らの意見がより明確になっていることを自覚している子もいる(H・I・J・K)。議論を通した他者との批判的コミュニケーションは、決して他人との対立を煽るものではない。それは、これらの感想に明確に示されているように、ほかの人の意見にも理があるということを理解し、それを通して、自分自身の意見もより明確に理解できるようになる、というプロセスである。

同じ意見、同じ感じ方をするから友だちになる。そんな「なれ合い」の関係を超え、自分とは意見が違う他者と邂逅すること。そんな本当の意味で自律した個人間の関係を築く。哲学的思考法を用いる批判的議論を通して、子どもたちはその第一歩を踏み出すことができる。

しかし、残念なことに、子どもたちの感想をみればわかるとおり、現在の学校での授業の中ではそのような機会はあまりに少ない。たしかに、あえて授業で教えるべきことではなく、大人になるにつれて自然と身に付くものだ、という意見はあるだろう。しかし、昔と比べ、子どもたちの環境は激変している。携帯電話やインターネットといった新しい道具が氾濫し、その中で新しいコミュニケーションの方法を模索している現代社会において、人と人とが向き合いながらとるコミュニケーションの方法を自覚的に獲得していなければ、新しい技術の中でのコミュニケーションには対応できない。

いや、もしかするとこれは、現代の子どもに特有の問題ではないのかもしれない。われわれ大人でさえ、異質な考え、意見が違う他者を避けてしまっているのかもしれない。しばしば、イジメは学校外にもあり社会に出てもある、といった意見を聞く。もしそれが本当なのだとすれば、それに参加している大人たちは、もしかすると、「なれ合い」のコミュニケーションしかとれない大人なのではあるまいか。自分とは違う他者を認められず、自分と同じではない人間を排除する。そんな大人がいるとすれば、それは、意見の違う他者との議論によって何かを獲得した体験がないことに由来するのではあるまいか。そんな思いにもかられる。

4.さいごに なぜ哲学的議論は健全なコミュニケーションの促進に有効なのか

現代の子どものかかえるコミュニケーション不全という問題に対して、われわれは一年間「哲学」の授業を通して、意見の違う他者とのコミュニケーション力を伸ばす授業をしてきた。

しかし、なぜ哲学の問題をわざわざ議論のテーマにしているのか、授業でとりあげた抽象的な話題は中学生には難解すぎるものであり相応しくないのではないか、そう言われるかもしれない。もしかすると、多くの方がいわゆるディベートの授業でとりあげられるような具体的で社会的問題をテーマにすべきだ、そのように考えるのかもしれない。

しかし、われわれはあえて強い言葉でそのような意見を否定したい。そのような考えは木を見て森を見ていない、と。

まず強調しておかなければならないのは、感想の結果からも分かるとおり、子どもたちは、大人たちが「哲学的で抽象的すぎて何の役にも立たない」と思うような問題に対して、実際に興味を持っているという点である。もちろん、授業の中で扱う問題は、子どもが興味をもてばそれだけで良いというものではない。しかし、興味を持たない問題よりも、子どもたちにとって興味を持てる問題、いっそう身近で考える必要があると思う問題を扱うことの方が議論を活性化するためには重要である。

ここで大切なのは「子どもたちにとって」という部分である。われわれはとかく「具体的であれば身近である」と考えてしまう。ご近所トラブルや法律的問題こそが「身近な」問題である、と。しかし、子どもたちにとっては、学校生活こそが具体的で身近な問題の宝庫なのである。そこでは日々、数学や英語といった授業が行われ、クラスメートとの関係によって物事が進んでいく。先にとりあげた「数・数学は人間がつくったのか、元々あったのか」や「他人の考えの中で理解できない「考え」はあるか」といった、われわれにとっては「抽象的すぎる」問題も、子どもたちにとっては日々の生活の中でリアルに感じる「身近な」問題なのではあるまいか。子どもたちが現にこのような問いを議論することを望み、それを楽しむことさえできたということは、このことを傍証するのではあるまいか。

もちろん、子どもたちもこのような抽象的思考ばかりにとらわれていてはいけない。それを具体的問題へと移しかえ、現実の困難な問題に対処していかなくてはならないのだ。しかし、抽象的問題について考え自分の意見を表明し他の人の意見を傾聴する、という経験と方法は、具体的問題に対処するときにも同じように生きてくる。それは、数学にかんしてしばしば言われることと似ている。数学は一見すると「実生活では役に立たないし、何のために学ぶのか分からない」ものかもしれない。しかし、数学を学ぶことでたしかに思考力は養われる。これと同様に、抽象的な問題を扱うことによって、自分の力で深く考え、それを他の人と議論するという実生活でも応用可能な「深く考える力」を培うことができる。しかも、現在の学校教育の中では、このような抽象的問題を日常の言葉を使って議論するという機会があまりにも少ないのである。

大人にとって扱いやすいテーマであれば、子どもたちの議論でも有効だろう。この考え方が議論のテーマを不当に狭めてしまっている。その多くは、具体的で意見がおおすじ決まった問題になってしまっている。議論が抽象的であるからこそ、意見が言いやすいし、ほかの考え方が容易には思いつかないからこそクラスメートの意見が聞きたいのである。

なぜ抽象的だと意見が言いやすいのか。議論をする際にもっとも避けなければならないのは人格攻撃であり、おそらく、子どもたちが不安に思うのもこの点である。抽象的で哲学的な思考を必要とする問題は、これをあらかじめ回避する効果がある。たとえば、「団地の玄関を誰が掃除すべきか」といった具体的なご近所トラブルを議論のテーマにしたとしよう。しかし、このとき、ふだん行われている掃除の時間の個人の態度が批判の対象になるといったことがすぐに思い浮かぶ。したがって少なくともコミュニケーション力を育てるという観点からすれば、具体的な問題であればいいというわけではないのである。

ほかの意見が容易には思いつかない方が議論は活性化する、というのにも理由がある。それは、ほかの人の意見を聞いたときに「驚き」があるからである。意見の違う、自分とは異質な他者との出会いには驚きがともなう。自分とは違う意見を持っているが、あらかじめ予測可能な意見しか言わない人間は、ある意味では他者ではない。すでにして仲間である。グローバル化といったものを持ち出さなくても、地域の中で、会社の中で、さまざまな場面で、思いもよらない意見を言い、思いもよらない行動をとる、そんな他者と子どもたちはこれから生きて行かなくてはならない。

哲学的に考えることはたしかに難しい。しかし、難しいことは悪いことではないし、つまらないことでもない。子どもたちの感想は端的にそれを示している。むしろ、難しいからこそ、ほかの人の意見を聞きたいと願う。そして、難しいからこそ、自分とは違う意見に驚き、それを思いついた人に尊敬の念が生まれる。なぜそんな意見を持つのか。その主張の理由は何か。それが聞きたくなる。哲学的問題はたしかに抽象的である。しかし、抽象的だからこそ、子どもたちは安心して自分の意見が言える。それが、短絡的な人格攻撃の対象にはならないからだ。

子どもたちはわれわれの授業を通して本当に異質な他者と向かい会うことを学んでくれたのだろうか。「その第一歩は踏み出すことができた」。われわれはそう信じている。しかし、それが十分なものであったか、そういわれると不安が残る。

ただ、この論文を通して多くの方に問題を共有してもらえれば、そして、ここでの実践をさらに充実したものへと深化させてもらえれば、多くの力強い子どもを育てることができる。そう確信している。自分とは違う意見の他人を尊重し、彼らとコミュニケーションがとれる、そんな子どもたちが築く未来の社会は素晴らしいものに違いない。

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