暁烏敏賞 平成19年第2部門論文「「いじめ」を越えた子どもたちとの歩み 教室の人間化から生まれる成長の姿」5

ページ番号1002556  更新日 2022年2月15日

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第23回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】「いじめを越えた子どもたちとの歩み 教室の人間化から生まれる成長の姿」寺岸 和光

5 子どもたちがつかみ得たもの

「いじめ」はなくならない。逆に、メールなどによって、当事者が特定できないように巧妙化・陰湿化している。そして、個体化した生活の中で、子どもは人の体温をますます感じられなくなっている。そんな状況の中で、どうすれば「いじめ」はなくせるのか。私の答えは、「いじめ」自体に対応する方法はすべて応急処置でしかないということである。子どもの生き方が変わらなければ、次の「いじめ」は必ず生まれてくる。だからこそ、子どもが協同的に学び、成長していける学級づくりに教師の主眼は置かれなければならない。

このことは、子どもたちが語った「つかみ得たもの」を示すことで明らかにできる。以下に紹介するのは、三月中旬、卒業式直前に実施した「ラストスピーチ」での内容の一部である。小学校生活の最後に、仲間や私に伝えておきたいことがテーマであった。しかし、秋から考え続けた「いじめ」について語った子どもはほとんどいなかった。

  • 自分がここまで伸びたのは、みんながいたからやと思う。朗読をやってるとき、自分よりうまい人がいたら、追いつこうと思って、その気持ちを成長につかうっていうか、気持ち次第で成長につなげることができる。けれど、それはみんながいたからやと思う。
  • 運動会の成功はぼくらの力の表れやろ。先生に会わなかったらこんな力はつかめなかったと思う。出会いは大切だと思った。卒業してもいろんな人に出会って、経験をして、自分の力にしていきたい。
  • 五年生のときは発言するのが面倒くさいと思ってた。まともに発言したことがなかった。六年で話せたのは、みんなががんばってたから自分もがんばれたんやと思う。
  • 最初、こんなクラス、嫌だと思った。学校がまた嫌いになりそうやった。でも、学級会、実は楽しかった。だって、五年間、みんながまじめに話しているの、一度も見たことなかったから。学級会のとき、みんなのまじめな発表見て、こんな顔してたんやと思った。みんなの前でA子が話してるの、初めて見た。最後の一年間、楽しかった。
  • 合宿の夜に私、お腹痛くなってベッドに寝てたんやけど、そのとき、B君たちがご飯を持ってきてくれて、すっごくうれしかった。合宿は初めての経験だったし、行事の中で病気になったのも初めてやったけど、そんな経験があってよかったなって思った。

スピーチ原稿は書いていない。どの子も、内面を手探りしながらたどたどしく語った。笑いを誘うエピソードが飛び出す。目を潤ませて話す子どもがいる。スピーチは、育んできた力によって引き出された気づきと言葉にあふれ、その「ありのまま」を口にできる教室の関係性が個々の声を支えていた。どの子どもも、四月とは比べものにならないほど大人びていた。私はもっと時間がほしかった。世の中にあるさまざまな課題を、この子どもたちといっしょにもっと考えたかった。

おわりに

子どもたちはなぜ「いじめ」と向き合えたのか。それは、目先の人間関係に振り回されて生きる自分の小ささを圧倒して余りある、仲間一人一人の存在の大きさや自己成長の実感を経験していったからである。誰かを標的にする歪んだ優越感ではなく、一人ではつかめない伸び合う爽快感を子どもたちは知った。この学級の歩みは「いじめ」問題だけでなく、今の個体化した子どもたちが、やりがいを感じて充実する学校再生の切り口を示していると私は考えている。

それでは、子どもたちと私が創り上げていったこの学級とはいかなる場所だったのか。あらためて考えてみると、それは単純明快である。できることを喜び、認められることで喜び、自分の関与から生まれる仲間の姿を喜べる場ということである。人間が感じる人間らしい喜びとは、流行の消費でもスキルを増やすことでもなく、結局は人と人との間で自分の存在が肯定され、大切なものとして実感できることではないだろうか。

話し方マニュアルや表現のデジタル化など、教育現場は世の中の変化に合わせた真新しいスキル学習で埋め尽くされつつある。そして、学力問題を背景にして、見た目にわかりやすい出来不出来が評価の中心になっている。しかし、人間が他者によって自らの存在を証明され、生きる力が協同的に育まれていくものなら、現在の教育の流れはゲームやメールで個体化した子どもの生活様式に抗することにはならない。マニュアルや画面をながめる教育は、生身の人間の体温を感じ、内面に思いを馳せて寄り添う差異の経験を削り落としてしまう。人生の基盤となる義務教育の時期に最も重要なのは、他者と向き合う場、つまり、仲間と対話しながら手探りで自分自身を感じ取っていく経験の場なのである。このような学級は、次のように言い換えることができるだろう。

人間らしいかかわりと感情で生きられた教室(人間化された教室)

ラストスピーチの声は、人間らしく素直に成長し合えた時間の意味を象徴していた。

子どもは力も経験も足りない。未成熟である。だから、人間関係に悩む多くの大人以上に、子どもが自発的に解決していくことは困難である。特に、「いじめ」には一旦始まってしまうと止められないムードが漂う。よくないとわかっているのに続いていく。そして、いじめる側もいじめられる側も傍観する側も自ら始めたにもかかわらず、未来で思い出したくない場面を幾重にも背負っていく。それを止められるのは教室では唯一、教師しかいない。子どもたちとは異質な存在である教師にしか止められないのである。

卒業を間近に控えたある日、総合学習の最後に私は無謀にも次のように問いかけた。

「中学に行ったら、誰かをいじめるかもしれないと思う人?」

多くの子どもの表情が曇った。そして、ゆっくりと少しずつ手が挙がっていった。なんと、全員が挙手したのである。私はこの時、「この子たちは深く学んできた」と確信した。「もういじめない」という浅い言葉にしがみつかず、「いじめる!」と断言して茶化すわけでもない。誰かを下に見て、傷つけることで自分を満たそうとする人間的な弱さを、自分の中にしっかりと見取っている。自分の弱さを認めている。迷いながらも、教師の目前で「いじめるかもしれない」と挙手した子どもたちの「ありのまま」がうれしかった。この強さがあれば、弱い自分とも向き合っていけるはずだと私は感じた。事実、この学年に「いじめ」はないと耳にしながら三年が過ぎ、子どもたちは中学校を卒業した。子どもたちは「いじめ」を越えることができたのだと、私はこのとき初めて思えた。

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