鶴来村村御印

ページ番号1009546  更新日 2023年2月1日

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白山市指定有形文化財 古文書
鶴来村村御印(つるぎむらむらごいん)

〔所在地〕白山市西新町168番地1 白山市立博物館
〔所有者〕白山市
〔員数〕1通
〔材質・形状〕檀紙、続紙、包封
〔寸法〕縦37.7cm、横85.5cm
〔年代〕寛文10年(1670)
〔指定日〕昭和58年3月11日

鶴来村村御印の写真

村御印は加賀藩が村々に下付した租税徴収令状のことで、その村の草高(田畑や宅地の面積を米の生産可能量で表したもの)と、免(税率)及び雑税額などが書かれた文書です。第3代藩主前田利常の黒印「満」が捺印されていることから村御印と呼ばれました。加賀藩では作柄の豊凶に関わらず、年貢は毎年一定の税率を村ごとに割り当てる「定免法」を採用し、村御印を下付することで税の納入を徹底させました。村御印は慶安3年(1648)から4度回収下付され、現在市内には4度目にあたる寛文10年(1670)のものが多く残されています。
住民にとって村御印は単なる年貢割付状ではなく藩主の象徴であり、御印箱に収め皮袋に包んで村肝煎(庄屋)の家の大黒柱に安置するなど、その取扱いは丁重を極めました。また、村の寄り合いは村御印の前で行われ、一度決定された事項に異議を挟むことができないという言い伝えも残るなど、明治に至るまでの200年間その権威は失われることはありませんでした。
藩政時代の集落規模や税率など農政・税制・産業を知る上で貴重な史料であり、また民俗学的にも大切な資料であるといえます。
鶴来村(現白山市鶴来地区)は、白山ろくと平野を結ぶ谷口に立地し、鎌倉時代にはその名が見えるなど、金剣宮の門前町として発展しました。江戸時代に入ると城下町金沢を結ぶ鶴来街道(脇街道)が設けられて宿駅と定められ、商工業者が多く集住する在郷町として栄えました。そのため定納米(年貢)や口米(年貢手数料)の一部を米ではなく銀納させたり、小物成(雑税)の種類が多いなど、通常の村御印とは若干異なる文面となっています。翻刻文は以下の通りです。

 加州石川郡鶴来村
壱ヶ村草高 内拾五石明暦弐年百姓方より上ル付無検地極
 六拾石寛文四年上高
一、千弐百八拾九石
 免七ツ 内五歩明暦弐年より上ル
千三石三斗五升八合 定納口米新京升
 内
六百弐拾八石四斗五升八合 年内可納所
三百七拾四石九斗 翌年六月中銀子ニ而可納所
 此代銀拾弐貫三百七拾壱匁七分 壱石ニ付三拾三匁充

一、壱貫弐百六拾三匁弐分 夫銀 定納百石ニ付百四拾目充、八月中可上之
一、壱貫五百弐拾三匁 山役
一、三百目 川役
一、九百八拾壱匁壱分 蝋燭役
 内五百四拾四匁壱分 出来
一、壱貫弐百九拾六匁八分 絹判賃役
 内七拾弐匁八分 出来
一、拾六匁 油役
 外拾六匁 退転

右之通可納所、但六(割印)月中納所之銀子相延、若百姓之勝手能事候者、七月中にも可上之、
奉行人幷十村肝煎・村肝煎誰々によらす、何角申事候共、此印面之外一円承引仕間敷候、
敷借米明暦三年より令免除者也

寛文十年九月七日(「満」黒印)
 鶴来村百姓中

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