碓井梅嶺書 観月の俳文「月の蝕」

ページ番号1009590  更新日 2023年2月8日

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白山市指定有形文化財 典籍
碓井梅嶺書 観月の俳文「月の蝕」(うすいばいれいしょ かんげつのはいぶん つきのしょく)

〔所在地〕白山市西新町168番地1 白山市立博物館
〔所有者〕白山市
〔作者〕碓井梅嶺
〔員数〕1幅
〔形状〕紙本墨書、軸綴
〔本紙寸法〕縦31.2cm、横40.4cm
〔年代〕天保9年(1838)
〔指定日〕昭和63年3月12日

碓井梅嶺書 観月の俳文「月の蝕」の写真

天保9年(1838)8月15日(旧暦)に、中秋の名月(望月)を観賞しようとした出来事を綴った俳文です。朝から空が晴れ渡り、周囲の人々とともに望月を期待していたものの、戌の刻から月蝕(月食)となってしまった結果に対し、作者の梅嶺は「これこそ盛んなる者であっても驕りたかぶるな、という天地からの教示であり、ほの暗い月明かりでもやはりありがたいことだ」との感想を述べ「世の人をみななぐさめて月の蝕」の句で結んでいます。
作者の碓井梅嶺は本名を米屋次郎左衛門といい、越中国砺波郡(現富山県小矢部市)の生まれで幼名は直吉、諱は顕古、号は梅嶺、魯堂、桂舎、無味斎などがあります。文政元年(1818)19歳の時に石川郡鶴来村(現白山市鶴来地区)で醸造業を営む米屋幸右衛門の養子となりました。その後京都に上って儒学者の猪飼敬所(いかいけいしょ)に学び、帰郷後は家業を継いで組合頭・算用聞・山廻役等の職も歴任しました。勤王の志篤く、加賀勤王の志士と親交を深めました。その一方で詩歌・俳諧にも造詣があり、特に俳諧では月江庵(げっこうあん)梅嶺を号して、宗匠月江庵の始祖となっています。著書に「聴句要訣」「作法要法」「文嚢」などがあります。
翻刻文は以下の通りです。

華に嵐、月に群雲はいうも更なり、哀れ無きある物として、満て顧さるのためしやはある如し
戊戌仲秋の望(満月)打ち日さす、日の朝より空晴わたり、いとのどやかなる景色
今宵の月は、如何にさやけき影も美しからむ、見まほしなど、黄昏待たでさざめき合る友垣ここに集え、かしこに走る、されば広き隈也、風雅に響める君子の多き幾十許とも思いやられつ
さてこの日の酉過る頃、辺りの山の端輝くばかり、差し出る光り円かなる、西に芥子ばかりの雲なく、地に薄動くべきか風さえあらぬ
かかる良夜の近き年頃あるべきやと、ためしの詩に頭傾け、和歌に心苦しむ輩、ひたぶるしたり顔なる
おりしも戌の頭よりややかげろい出、程なく影だにささぬ気色といやけらし
これなむ世は盛なるも誇るまじきの戒め、天地の導き給えるみ教えいと頼もしく、ほの暗き御影ぞ、なお畏しと仰ぎはべりて

世の人をみな慰めて月の蝕 梅嶺 謹草
 

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