平成20年度入選作文(ジュニア部門1)「母への思い」

ページ番号1002687  更新日 2022年2月15日

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第24回暁烏敏賞ジュニア部門入選作文(中高校生部門)

写真:ジュニア盾

  • 作文題名 母への思い
  • 氏名 永見 舞
  • 住所 石川県白山市在住
  • 学年 松任高等学校 3年

私の家庭は母子家庭。永見家の大黒柱は母なのです。

去年の五月に父を病気で亡くしました。急に一人になった母は涙を耐え、通夜などの準備にかかっていました。誰よりも辛かったはずなのに、弱さを見せずに前を向く母に私は通夜、葬式の時にはげましの声などかけられませんでした。きっと母は「三人で強く生きていこう。」と決めたのだと思いました。長女の私は、葬式後の手伝いなどをやり疲れたとすぐ弱音を吐いていたけれど、母はもっと大変でした。しかし弱音一つ吐かずに私たちをとても気にかけてくれて思わず涙が出ました。その日から私は母に甘えるのをやめました。できる事は自分でやる、家事を母の代わりに行う、弟の面倒を見る、力強い母の背中に私はその日約束しました。

母は弟の事を気にかけていました。弟はパパっ子だったので亡くなったショックが大きいのではないかと心配だったからです。何度も、
「父の代わりはできないね。」
と、私にもらしていました。その言葉を私はただ聞く事しかできませんでした。母のこの言葉は自分を責めているように聞こえたからです。誰も父の代わりはできない。母が一番分かっていました。

私の家は共働きでした。けれども父がいなくなり、経済的にも厳しくなりました。母はスタンド勤務でいつもは朝から夕方まで働いていたけれど、今は夜勤に入ったり、朝から夜まで勤務時間を延長したりと、家計のために頑張って働いています。そんな母を助けたくて私もアルバイトをしようとしましたが成績が厳しく、学校からの許可書がもらえず断念するしかありませんでした。だから家事をすることに決めました。今までは全てを母に任せっきりだったので洗濯機の使い方も分からず、もっと手伝いをすれば良かったと後悔しました。けれども母を手伝うと決めたからには母の役に立とうと思いました。

父が病院に入院していたころ私は、全然学校に行っていませんでした。母とはそのことで何回も毎日のように喧嘩をしていました。母は口ぐせのように「お願いやから学校に行こ。」と言っていましたが、そのころの私は子供すぎて母の辛い気持ちなど考えずに、自分勝手にしていました。まだ父が病院にいるころお見舞いにいきました。父は「いつも笑顔のアイツが舞のために悩み泣いていた。」と教えてくれました。母は父には心配をかけたくなくて、どんなに辛くても病院では笑顔でいました。そんなことも知らずにただ自分のわがままで、学校に行かなかったことを悔やみました。けれども学校にはなかなか行けないまま父が亡くなりました。葬式には私の友達が来てくれていました。母が呼んでくれたと聞かされました。ここまで心配かけてしまい申し訳ない気持ちになりました。私の心配と父の心配。大きな何かが母の肩にのっていたと思います。どうしようもできないからこそ悩んでいた母。それを改めて知った私はそれからしっかり、学校へ行きました。母と「どんなに辛くても高校は卒業する。」を目標にしたからです。母が私をはげまし、いつでも笑顔でいてくれたこそ今も学校に通えています。

私の中の母は本当に本当に大きい存在です。自分が辛くても笑顔でいてくれ、誰より私達を心配してくれて、喧嘩しても私を気にかける母。もう心配をかけたくありません。「いつまでも子供のままではいけない。」母に教えられました。私は就職するのでやっと家計を助けられます。これ以上大変な思いをして体をこわしてほしくないのが本音ですが、この年になるとなかなか本音で話せません。けれども喧嘩などで本音を吐き合います。私と母の本音のコミュニケーションは喧嘩なのかもしれません。私は母のおかげで成長できました。母が私の母で良かったと心から思えます。

「ありがとう。」

私が母に一番贈りたい言葉です。嫌いと言っても表面の言葉で本当は母が大好きな私です。

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