白山市のれきしまえへもどる
この辺りに人が住みはじめたのは、とおく縄文時代(じょうもんじだい)にさかのぼります。
その後、ながい年月のうちに、たくさんの人が住むようになり、しだいにまちがつくられていきました。
 舟岡山遺跡(ふなおかやまいせき)【旧鶴来町】

舟岡山遺跡は、今から4500年ほど昔の縄文時代中期の遺跡です。舟岡山で発見(はっけん)された竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)には、4〜5人の家族(かぞく)が住んでいて、このような家が4〜5軒(けん)集まって集落(しゅうらく)をつくっていたと考えられています。げんざいは、3つの竪穴式住居が復元(ふくげん)されており、公園(こうえん)として整備(せいび)されています。
舟岡山遺跡
 東大寺領横江荘荘家跡
  (とうだいじりょうよこえのしょうしょうかあと)【旧松任市】

平安時代(へいあんじだい)の初期(しょき)にできた荘園(しょうえん)の跡(あと)で、発掘調査(はっくつちょうさ)によって、いくつもの建物跡と大量の土器が出土(しゅつど)し、この場所(ばしょ)が荘園の中心である荘家跡(しょうかあと)であるとわかりました。荘家跡が発見されることはたいへんめずらしく、現在もたいせつに保存(ほぞん)されています。
東大寺領横江荘荘家跡
 鳥越城跡(とりごえじょうせき)【旧鳥越村】

鳥越地区の城山(しろやま)とよばれる山のうえに砦(とりで)があります。ここは、「百姓ノ持チタル国」といわれ約100年ものあいだ加賀(かが)の国を支配(しはい)した、一向一揆(いっこういっき)の最後(さいごの拠点(きょてん)となった場所(ばしょ)です。
織田信長(おだのぶながの軍勢(ぐんぜい)にせめられた鳥越城(とりごえじょう)のひとびとは、城主の鈴木出羽守(すずきでわのかみ)を中心にはげしく抵抗(ていこう)しますが、けっきょく、ほろぼされてしまいました。
鳥越城跡
 北前船(きたまえぶね)の活躍(かつやく)

江戸時代中期から明治のはじめにかけて、北海道(ほっかいどう)や東北地方の物資(ぶっし)を瀬戸内海(せとないかい)の港町や大阪(おおさか)へはこぶのに大活躍(だいかつやく)したのが、北前船です。美川は、この北前船の寄港地(きこうち)として発展(はってん)しました。
※写真は石川ルーツ交流館に展示されている北前船の模型。
北前船模型
 石川県庁跡(いしかわけんちょうあと)【旧美川町】

明治5年(1872年)に、県庁(けんちょう)が一時、美川町(現在の白山市美川南町)にうつされました。このとき、地名が石川郡美川町であったことから、「石川県」のなまえが生まれました。県庁がおかれた場所には、「石川ルーツ交流館」があり、とうじの県庁や北前船の繁栄(はんえい)のようすを紹介(しょうかい)しています。
石川ルーツ交流館

[白山市の偉人(いじん)
 千代女(ちよじょ)

千代は、江戸時代の中ごろに、現在の白山市八日市町に生まれました。千代の家は、表具屋(ひょうぐや/絵や書をかけじくにしたり、ふすまやしょうじをはりかえる仕事)だったので、きれいな絵や書をみてそだち、おさないころから俳句(はいく)をつくるようになり、「朝顔や つるべとられて もらひ水」などのすばらしい俳句をたくさんのこしました。
 枝 権兵衛(えだ ごんべえ)

枝権兵衛は、現在の白山市坂尻町の農家に生まれ、江戸時代の終わりごろに活躍した人です。白山市は、石川県有数の米の産地です。米作りには水が欠かせませんが、昔(むかし)から水がいつでも豊富だったわけではありません。主な用水は作られていましたが、取り入れ口がばらばらで、洪水のたびに入口がつまり、手取川から遠い平野では水不足に悩(なや)まされていました。そこで、権兵衛は、用水沿いの村々をまとめ、七ヶ用水(しちかようすい)の元となる富樫用水(とがしようすい)の取入れ口を整備しました。途中工事費も少なくなりましたが、権兵衛は自分の財産を投げ出して完成させました。こうして水の心配がへり、安心して米作りができ、たくさんの米がとれるようになりました。
 松江 安見(まつえ やすみ)

松江安見は、江戸時代の終わり頃、今の白山市徳丸町(とくまるまち)に生まれました。算数や天文の学問を大野弁吉(おおのべんきち/このころ発明の天才といわれた人)に学んだと言われています。15才のとき、病気やけがをしても医者にかかるお金がなく、そのまま死んでいくたくさんの町の人や農家の人を見た安見は、まずしい人たちの命を守ろうと医者になることを決心しました。漢方(かんぽう)や西洋医学(せいよういがく)を猛勉強(もうべんきょう)し、35才の時、「松江病院」を開業(かいぎょう)しました。この病院は、その地域で初めての私立病院(しりつびょういん)でした。40才の時には石川県で初めて解剖(かいぼう)をしました。人々に慕(した)われた安見が亡くなった後、記念の碑(ひ)が建てられ、今は東明(とうめい)小学校の横にその碑があります。
 小川 直子(おがわ なおこ)

小川直子は江戸時代の終わりごろ金沢の武士の家に生まれました。このころは「女の子に学問はいらない」という時代でしたが、勉強の好きな直子は一生懸命(いっしょうけんめい)に文学を学んだり短歌を作ったりしました。23才の時、鶴来の小川幸三(おがわこうぞう)と結婚しましたが、夫の幸三は幕府(ばくふ)を倒そうとして打ち首になりました。直子も死のうとしましたが、家族に諭(さと)され、思いとどまりました。直子は「夫の志(こころざし)をついで学問の道を進もう」と決心し、猛勉強をしました。30才の時には金沢女学校の先生になり、その後も石川県女子師範(しはん)学校、青森県女子師範学校、京都府立高等女学校の先生となり、明治天皇(めいじてんのう)の娘の教育係としても活躍(かつやく)しました。
 金子 鶴村(かねこ かくそん)

金子鶴村は江戸時代の中ごろ、今の白山市鶴来地区に生まれました。小さい時から
学才(がくさい)として知られていました。京都に出て勉強をし、帰郷(ききょう)後、小松に集義堂(しゅうぎどう)という学校ができた時、教授(きょうじゅ)となりました。海外のこともよく知っていて45才の時から27年間加賀藩(かがはん)の知恵袋(ちえぶくろ)として仕えました。書いた本は、たくさんありますが、鶴村が31年間書き続けた「坐右日録(ざゆうにちろく)(鶴村日記)」は江戸時代のくらしのようすがよくわかる資料になっています。
 島田 清次郎(しまだ せいじろう)

島田清次郎は明治時代に、今の白山市美川南町に生まれました。船乗りの父を2才で失うという不幸に
見舞(みま)われ、5才の時に母方の親戚(しんせき)を頼って、金沢へ引っ越しました。学業成績(がくぎょうせいせき)は常に上位にランクされ、文学に関心を持ち、20才の時に発表した小説「地上」は、空前(くうぜん)のベストセラーとなり日本でも有名な作家の一人になりました。白山市では、島田清次郎のすばらしさをたたえ、「白山市ジュニア文芸賞(ぶんげいしょう)・島清部門(しませぶもん)」を制定し、文芸作品を募集(ぼしゅう)しています。
 暁烏 敏(あけがらす はや)

暁烏敏は明治時代の初めごろ、今の白山市
北安田(きたやすだまち)の明達寺(みょうたつじ)に生まれました。京都の学校で勉強した後、東京に出て雑誌(ざっし)に自分の考えを発表して有名になり、多くの人々に影響(えいきょう)を与えました。また歴史に残る有名な思想家(しそうか)の考えを研究(けんきゅう)し、世界各地を旅行(りょこう)して知識(ちしき)を広め、その学問の深さと広さはこの時代最高の人と言われました。1949年、自分の本約5万冊を金沢大学に贈り、暁烏文庫(あけがらすぶんこ)として今も大切に利用されています。白山市では敏をたたえ「暁烏敏賞」を制定し、国内外より懸賞論文(けんしょうろんぶん)を募集(ぼしゅう)しています。さらに子ども達を対象にした「白山市ジュニア文芸賞・暁烏敏部門」も制定し、作文を募集しています。
 松本 白華(まつもと はっか)

松本白華は江戸時代の終わりごろ、今の白山市
一番町(ひがしいちばんちょう)の本誓寺(ほんせいじ)に生まれました。34才の時、東京に出て漢学(かんがく)や書を勉強し、次の年、ヨーロッパやインドを旅行して、知識を広めました。その後も中国を旅行(りょこう)して知識(ちしき)を広め、仏教界(ぶっきょうかい)を代表する知識人とも言われました。42才の時、松任に帰って塾(じゅく)を開き、多くの人たちを教え、松任の文化の発展に尽くしました。
 熊田 源太郎(くまた げんたろう)

熊田源太郎は明治時代、美川に生まれた
実業家(じつぎょうか)です。文化・教育事業に熱心で、町内や近くの市町村の青少年の教育に力を注ぎました。大正11年には、自分で集めた本、約2万冊を広く公開し、私設図書館(しせつとしょかん)「呉竹文庫(くれたけぶんこ)」を開きました。本の内容は、源太郎の興味(きょうみ)があった本だけでなく、その当時のベストセラーや社会問題(しゃかいもんだい)、百科事典(ひゃっかじてん)など、町の人々が本に親しんだり、勉強をしたりするのに使えるものが選(えら)ばれており、自分のためではなく、人々のために図書館を建(た)てたことがわかります。呉竹文庫は今も一般に公開されています。
 廣瀬 與吉(ひろせ よきち)

廣瀬與吉は明治時代に、今の白山市美川今町に生まれました。祖父も父も鍛冶業(かじぎょう)をしており、子どもの時から機械いじりが好きでした。織機の発明に携わり、特許3件、実用新案8件が登録されました回転式脱穀機を完全に改良して特許を取得し、3000台を北海道ほか18県で販売し、大好評を得ました。米選別機も3万数千台製造し、国内だけでなく朝鮮・台湾・中国でも販売しました。また自動籾摺機(じどうもみすりき)や自動耕運機も製造販売しました。米づくりの機械化に一生をささげた與吉はいつも「米づくりは、そのうち全部機械化される」が口ぐせでした。
 三宅 橘園(みやけ きつえん)

三宅橘園は江戸時代の中ごろ、今の白山市中町に生まれました。家は代々町年寄(今の町会長のような役)をしており、たくさんの本がありました。子どもの頃から読書に親しみ、10歳で経書(けいしょ)を講じ、詩歌を読み、1213歳で孝経(こうきょう)・論語(ろんご)・中庸(ちゅうよう)の注釈を作り、文詩600余首を集めて1冊にまとめたと言われています。22歳の時、京都に出て知識を深めました。後に京都で塾を開き、たくさんの人を教えました。時々松任に帰り、学問の好きな人を集めて教え、松任の学問の向上につくしました。
 小堀 定信(こぼり ていしん)

小堀定信は明治時代、今の白山市月橋町に生まれました。運送業をしながら、金沢と名古屋を結ぶ鉄道(金名線(きんめいせん))の建設に着手しました。大正152月に加賀広瀬〜河原山(白山下)間が開業しました。昭和212月には鶴来〜白山下間の全線が開通しました。終点の白山下駅は尾口・白峰村の玄関口となり、白山登山客で賑わいました。金名線は人や物資を運ぶ大動脈として、鳥越村のみならず白山麓の発展に大きく貢献しました。しかし、念願の白山下から岐阜県の郡上八幡(ぐじょうはちまん)までは、費用不足のため、実現できませんでした。現在の白山白川郷ホワイトロードは小堀定信が考えたルートと同じです。
 隅谷 正峯(すみたに まさみね)

隅谷正峯は大正時代、今の白山市
辰巳(たつみちょう)に生まれました。学生時代に日本刀(にほんとう)の魅力(みりょく)にひかれ、日本刀のつくり方を学び、その後古名刀(こめいとう)(古い時代の優(すぐ)れた刀(かたな))の研究と名刀作りに取り組み、新しい境地(きょうち)を開きました。特に鎌倉時代(かまくらじだい)の備前伝(びぜんでん)という刀の製法(せいほう)を受(う)け継(つ)ぐ名人と言われ、独自(どくじ)で華麗(かれい)な刀文(はもん)(隅谷丁子(すみたにちょうじ)とよばれる)を完成(かんせい)しました。1981年に日本刀(にほんとう)で重要無形文化財保持者(じゅうようむけいぶんかざいほじしゃ)(人間国宝)(にんげんこくほう)に認定(にんてい)されました。
松任博物館(まっとうはくぶつかん)では、正峯の作品を常設展示(じょうせつてんじ)しています。
 蕪城 秋雪(かぶらぎ しゅうせつ)

蕪城秋雪は江戸時代の終わりごろ、今の白山市中町に生まれました。幼いころから絵が好きで、18歳の時に京都へ行き、師匠について画を学びました。読書・詩文・書も学びました。22歳の時に帰郷し、中町の家に数寄屋(すうきや/茶の湯のための建物)を建てて、茶道と香道を嗜(たしな)みました。26歳で前田藩の御用を務めるため、金沢に移り、藩主の命で揮毫(きごう‐毛筆で文字や絵を描くこと)することが度々ありました。31歳の時に子利嗣の勉学に付いて東京へ移り、諸名士に揮毫を依頼されるようになりました。作品「雲烟逸話(うんえいいつわ)」、「南画指要(なんがしょう)」は南画壇(なんがだん/中国の南宋画(なんそうが)、文人画(ぶんじんが)を起源とする絵画の領域)の優れた作品として光を放っています。
 梶野 玄山(かじの げんざん)

梶野玄山は明治元年、今の白山市
西新町(にししんまち)に生まれました。幼(おさな)いころから祖父(そふ)に絵を学び、小学校卒業後(そつぎょうご)、四条派(しじょうは)の画家垣内右(がかかいとゆう)りんに絵の基礎(きそ)を学びました。伝統的写実(でんとうてきしゃじつ)を基本(きほん)に、中国北宋画(ほくそうが)や狩野派(かのうは)の細密画法(さいみつがほう)など幅広(はばひろ)い画筆法(がひつほう)を駆使(くし)し、色彩豊(しきさいゆた)かな画風(がふう)を築(きず)きました。主に京都で活躍(かつやく)し、孔雀絵図(くじゃくえず)、青緑山水図(せいりょくさんすいず)を得意(とくい)とし、明治・大正の画壇(がだん)に揺(ゆ)るぎない地位(ちい)を築(きず)きました。各皇族(かくこうぞく)からのご下命(かめい)により、献上(けんじょう)した孔雀図、青緑山水図は約30点になります。
 長基 健治(ながもと けんじ)

長基健治は明治31(1898)年、富山県上市町の土肥家に生まれました。明治薬学校(現明治薬科大学)を卒業し、呉(くれ)海軍病院に勤務しました。大正7(1918)年12月、鶴来の長基孝太郎の長女三枝と結婚し、長基姓となりました。のち、薬剤師として鶴来のコメヤ薬局の経営者となり、薬局経営のかたわら、「桜」に関するあらゆる資料、文献(ぶんけん)を収集ました。金沢市泉ヶ丘地内に「百桜園(ひゃくおうえん)」を設け、桜木を五十数種やツバキ、薬草を植えました。全国的な桜の研究家として知られ、高岡市の二上山(ふたがみやま)公園に咲く「フタカミザクラ」などの新種の発見や兼六園の先代「ケンロクキザクラ」の蘇生(そせい)など研究者として貢献(こうけん)しました。また、鶴来を愛した郷土史家としても有名で、鶴来町文化財保護審議会会長や鶴来町立博物館協議会委員を務めました。
 
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